tedukaosanai

 

 

tedukaosanai


 

防災マスターが聞いた災害
手塚 順子・長内 喜四三
「平成10年台風5号の被害」

平成10年は、台風を初め大雨による被害が数多く発生した年だった。
この年8月下旬、十勝管内は大雨が降り続き、農作物を中心に被害が出た。
その雨の被害が癒えない9月、台風5号の大雨で、農業被害を初め、人的・住家・土木など多岐に渡る大きな被害が発生した。
その後、台風7号が相次いで接近し、大樹町で79戸が浸水するなど、大雨と台風のよる十勝管内の被害総額は農業被害55億円など140億円に達した

今回は、その中で、台風5号による被害状況について取材をしてみた。

【当時の状況】
 自然の猛威は容赦なく被害を拡大していった。前日からの雨も勢いよく降り続き、夕方には辺り一面雨水で一杯になった。どこが道なのか畑なのか道路標識は倒され、道路や畑が土砂で抉られ、次の朝には砂利畑と化した。その様子は、十勝平野の平坦な道が見えないほどだった。
周りの畑は高さは2m程まで、水に浸かっていた。近くの売買川が増水・氾濫したためだ。
手前の畑、次の畑、その次の畑と見渡す限りの畑が湖の様になっていた。
土管は流され,川西ブランドの長芋コンテナは砂利と一緒に帯広方面に向かって流されてしまった。

h10taifuu5douro1.jpg h10taifuu5douro2.jpg
道道214号線の被害状況


【農業被害の状況】

h10taifuu5nagaimohigai.jpg h10taifuu5hatakehigai.jpg
      水に浸かった長いも畑             水に浸かった畑

この写真のすぐ側にある吉田農場の奥様に当時の話をお聞きしました。
 その声は大変重く、思い出したくもない過去の出来事として二人の胸に刻み込まれている様子で、目を落とされていました。
 お二人からは、その当時の貴重な写真と資料を提要頂き、当時の状況をお聞きしました。

奥様が朝起きて、カーテンを開けたとき、言葉が出なかった。
 夢であってほしい、と願っていました。が、現実は予想以上のもので、その現実を夫に
伝えることすら出来ず、ただただ台所にうずくまって夫の起床を待った。と、当時を振り
返っていました。
 「涙も出ないとはこの事、気が狂いそうだったと」吉田さん、奥様の事が心配で目が
 離せなかったと当時の状況を話してくれました。
 (この地区では、数十年前にも同様の被害があったと聞いています)

futuunohatake.jpg 台風が来る前の畑の様子

【水害への対応】
 台風10号が、甚大な被害をもたらしていたこのとき、市民の生命と財産を守ることが
重要な任務のこの地域の消防団員、当時、帯広消防団員副団長(前・川西消防団分団長)
故・村瀬信義様が、農業被害の拡大を避けるため、関係機関と折衝を行ったという。当時
の十勝支庁とは、通信手段の遮断等もあり、迅速な連絡がとれず、現状を伝えるのが困難
だったという。地域の農家では牛600頭程が水につかり、酪農家は、全ての牛を失う覚
悟だったという。
 故 村瀬氏は、地元消防団等と策を練り、これ以上の増水を防ぐため、川の堤防に新たな
水路を造ることにより、水を逃がした。
 この決断を地元住民は「志ある行為」として受け止めたという。
 大胆過ぎる判断とも思われるが、地域の治水に精通していた方の協力もあったから出来
たのだろう。
 この判断により、地域周辺は勿論のこと下流地域の被害規模を小さく出来た。
 600頭の牛達は、この窮余の策により、救われたと聞く。

 この教訓・過去の水防活動から、色々なことがわかった。
 大きな災害があったとき、行政は同時多発的に発生する災害に対し、全ての災害箇所へ対応することは難しい。多発する災害に、対応できる範囲は限られてしまう。
 地域社会は住民も含めて、いわゆる自主防災・自分の町は自分で守る、自分の家は自分
で守る、という自助共助であることを実感しとをた。
 この取材を通じて、いつも家族で、そして近所地域で、この町の全ての命と財産を守るために、日々話し合いが必要だと感じた。

              取材協力:帯広市消防署
                                      帯広市消防団
                   帯広市 吉田武広 夫妻(写真提供も含む


故・村瀬氏の奥様から、村瀬氏の思いでについて、ご紹介しております。
よろしければ、次のリンクからご覧ください。 「私が見ていた主人 故・村瀬信義」

カテゴリー

cc-by

page top