開拓の黎明期

 寛文6年(1666年)、松前藩が「ビロー場所」(現在の広尾町)を設け、十勝アイヌと交易を始めたのが和人による十勝開発の始まりと言われています。
 明治2年(1869年)に開拓使が設置されると、静岡藩は十勝川の河口に位置する大津に役宅を設け、役人を派遣しました。同4年(1871年)には、農家数戸が入植し集団移住が始まりました。
 明治12年(1879年)に十勝で大発生したトノサマバッタは、翌13年(1880年)には大群となって日高山脈を越えて胆振、石狩地方にまで移動し、沈静化する17年までの5年間、「大蝗害(こうがい)」と呼ばれ、農作物に大きな被害を与えました。このバッタ騒動から十勝原野の本格的調査が始まり、広大な原野の全貌が初めて明らかになったのです。やがて植民地選定が行われ、明治29年(1896年)以降移民に開放されることになりました。
 この開放より前の明治16年(1883年)に静岡県加茂郡の依田勉三を中心とする「晩成社」が開拓団を組織して帯広に入植し、開拓が始められていました。また、その他にも、何の保護・保障もなく開拓に挑んだ無願開墾(正規に土地貸し下げを出願せずに未開地を開墾すること)も多くあり、他の道内各地では屯田兵が担っていた開拓を、こうした民間の人が中心となって進めていったことが、十勝の大きな特徴となっています。
 十勝の開拓は、十勝川流域の沖積地から始まりましたが、明治30年代に入って次第に周辺の台地にも及び、瘠薄な火山灰土の不利な条件を克服しながら、今日の十勝農業の基礎を築きました。
 明治30年(1897年)には、二宮尊親(たかちか:尊徳の孫)ら「興復者」も開拓団のひとつとして福島県から豊頃村(現在の豊頃町)に入植しています。
 この入植初期の、原野を切り開き農作物を作付できるようにする開拓そのものが、十勝における生産基盤整備の始まりでした。そしてその作業は、貧弱な農機具しか無い中での、人力と馬の畜力による過酷なものだったのです。

カテゴリー

cc-by

page top