価格暴落と凶作そして終戦

 昭和に入ってからは4年(1929年)に世界恐慌が起こり、5年の豊作による農産物価格の暴落、続く6、7、9、10年の冷害凶作によって、またも農家経済が悪化しました。これに対処するため、従来の豆作偏重を改め、乳牛、馬、小家畜の導入による有畜農業への転換、根菜類と夏作物(亜麻、えんどう)の導入、優良品種の普及と適地適作経営への転換、農産加工の普及、資材の自給自足など、農業全般に対する改善が打ち出されました。
 昭和2年(1927年)から20年計画で「北海道第2期拓殖計画」が始まり、途中、金融恐慌・凶作等経験から農業の地域分化・地帯形成を促進するための改訂もされながら進められていきました。その後昭和12年(1937年)からの日中戦争、16年(1941年)からの対米英戦争へと突入し、戦域の拡大と長期化から、従来の換金作物は作付の制限を受け、これに代わり麦類、とうもろこし、馬鈴しょ、てん菜、亜麻、牧草などの作付増加と馬の増産が義務づけられました。昭和18年(1943年)からは、激しい戦争のさなか、食料増産の期待のもと北海道土地改良5カ年計画が進められ、明渠・暗渠排水及び客土事業などが展開されましたが、予算の多くは稲作地域に配分され、十勝のような商品作物を生産している地域までは回ってきませんでした。
 戦時中は労働力や資材の不足によって略奪的農業を余儀なくされ多くの農地が荒廃して耕作放棄地は3割にも上り、極端な食料不足を招いたため農業・農村は大きな打撃を受けました。また、第2期拓殖計画も実りのないまま終戦とともに廃止されました。

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